共愛学園高等学校
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4月の聖句

学内教職員向けのメッセージです。

4月の聖句

「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1章7節)

「私達は仕事や地位や財産で、また思想や人生観や趣味などで自分を装うて生きています。装いなしに生きられませんし、装いを競い合って生きるのも、命の自然な姿です。しかし、その命が他方、与えられ、支えられ、そして今夜のうちにも取り去られるかも知れないものであることも事実です。そういう言わば命の裸の姿を忘れてはならないのに、私達はこの姿に平素殆ど無頓着なのです。それで命は、それを気付かせようと働きかけてきます。この裸の命自体の復権を求める働きこそ、宗教といわれるものの本質です」(京都御幸町教会牧師、故藤木正三)。
 自分の生活を振り返ると、様々な社会的装いをまとって生きていることに気付かされます。娘の前では父親であり、妻の前では夫であり、こども園や小学校の先生の前では保護者であり、職場の先輩(後輩)の前では後輩(先輩)であり、年上(年下)の前では年下(年上)であり、生徒の前では教員であり、スーパーの店員の前では顧客であり…人は様々な装いをまといながら1日を終えていきます。そういった装いが、人を社会的に成長させてもくれます。では、1日のなかで、私たちが社会的装いを脱ぎ、一人の人間としての自分と意識的に向き合える時間はどれほどあるでしょうか。
「主(=神)」という存在を前提にするとき、誰もが皆、社会的装いを脱いだ一人の人間に戻されます。そんな自分と意識的に向き合う時間が礼拝です。それは、限りある人間の生涯、「清く・正しく・美しく」生き切れない人間の弱さ、「善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則」(ローマの信徒への手紙7章21節)に気付かされる時間です。そしてそれゆえに、互いに赦し合い、互いに愛し合うことの尊さと必要性に気付かされる時間です。自分のまとっている社会的立場としてどう生きるのかというよりも前に、神の前に立つ一人の人間としてどう生きるのか、その「知恵」を学ぶことから1日を始められるのが、キリスト教主義教育の特色であり強みであると感じます。(宗教部主任)

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