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聖書
- 2024.11.01
11月の聖句
学内教職員向けのメッセージです。
11月の聖句
「知る力と見抜く力を身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重
要なことを見分けられるように」(フィリピの信徒への手紙1章9〜10節)
Eテレ『100分de名著』(解説:武田砂鉄)で取り上げられた、心理学者ル・ボンの著書『群衆心理』を読みました。ル・ボンは、「わかりやすさ」ばかりを好む社会に対して警告を鳴らしています。わかりやすい話でなければ聞いてもらえない。だから、どんな複雑な事象や高級な思想であっても、大切な要素を間引き、簡単な話にしてしまう。「わかりやすい」とは、自分で考えなくてもいいということ。それに馴れてしまうと、簡潔であること自体が価値になり、自分なりに考えて正確に推理しようとする力がどんどん弱まっていきます。現代のAIやSNSのテクノロジーは、自分と類似性の高い情報をかなりの精度でたぐり寄せることを可能にし、ごく自然な形で自分にとって「居心地のいい意見・つながり」に触れる機会を増やしています。それゆえに、その居心地の良さから出て、自分とは違う意見に触れることがどんどん億劫になってくる。むしろ自分に反対する意見に強い怒りや憎しみすら感じるようになってくる。自分にとって居心地のいい意見は分かりやすく、その逆は分かりにくいからです。ライターの武田さんは、その狭い視野と考え方に人が固体化されてしまう点に「わかりやすさの罪」を見ています。
イエスのカリスマ性は、敵国ローマをやっつけてくれる力として、すなわちユダヤ群衆にとっての「わかりやすい」救い主の姿として受け入れられていました。ところが、イエスの敵を赦す言動や十字架死(ローマの処刑)を受け入れる姿は、群衆や弟子にとって「わかりにくい」ものとなっていきます。人々は、イエスから遠ざかっていきました。しかし、その「わかりにくい」イエスの生き様のなかに、「本当に重要なこと」が秘められていると聖書は問いかけています。
イエスは、群衆や権力者が「わかりやすく」人や物事を分類し、判断していることに抵抗した人物でした。真実はもっと個別で複雑だからです。人は相手や物事を「わかりやすく」理解したいがために、安易に「わかったつもり」になってしまうことがあります。「分かりやすさ」には「何かこぼれ落ちているものがあるかも」と真実を知り、見抜こうする力を養っていくことが、人を本当に理解し愛することにつなげるキリスト教主義教育の大切な役割だと感じます。(宗教部主任)