共愛学園高等学校
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10月の聖句

学内教職員向けのメッセージです。

10月の聖句

「互いに相手を優れた者と思いなさい」
(ローマの信徒への手紙12章10節)

「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない」。物理学者アインシュタインの言葉です。アインシュタインの言葉にならえば、そもそも常識とは18歳までに身につけた偏見の集まり。しかもその偏見は、生きてきた時代と場所によっても大きく違ってきますので、私達が“常識”と感じているものは絶対とは言えないようです。
イエスは、ユダヤ教徒でありながら、ユダヤ教の“常識”にとらわれず、時には批判的な姿勢を示しました。ユダヤ教の権威に対して、「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、
よくも神の掟をないがしろにしたものである」(マルコによる福音書7章9節)とまで言い放っています。イエスは、どんな伝統や常識も、それが「互いに愛し合う」という実態から離れていれば、遠慮なく批判しました。たとえそれが“キリスト教”であっても、例外ではないと私は思います。むしろキリスト教主義とは、伝統や常識にとらわれ過ぎず、「互いに愛し合う」ことを体現するためには、変化することも厭わない姿勢であると思わされます。
 ドイツの教育学者ボルノーは、「もしかすると自分の方が間違っていたかもしれないという可能性を残して相手の言うことを聞く」ことが話し合いであると語りました。話し合いとは、自分の持っている常識がどこか偏っているかもしれないという可能性や、むしろ相手の知見は自分より優れているかもしれないという可能性を残した時に生まれる「聴く」姿勢のことなのだと思います。
 生徒間トラブルが生じた時、両者は往々にして「自分は正しく、相手は分かってくれないだけだ」という前提に立っていることがあります。そんな時、両者の話や周囲の話を聴き取り、真実がどこにあるのかを探ることに先生方は本当にたくさんの時間と心を割いてくださっています。生徒達はその真実と向き合っていく中で、いかに自分の常識に固執し、互いに愛し(聴き)合うことから遠ざかっていたかに気づいていくのだと思います。イエスのように、自分の常識にとらわれず、互いに愛し(聴き)合い、真実を求めていく大切さをこども達に伝えていくことは、キリスト教主義教育の実践の一つだと感じています。
(宗教部主任)

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